「地図の日」と「伊能忠敬」そして「最初の一歩の日」の由来と関係は?
419(しいく)で飼育の日や食育の日と答える方やベネズエラがスペインからの独立を宣言した独立記念日、英国40代・42代首相のベンジャミン・ディズレーリの1881年の忌日“プリムローズ・デー”などマニアックな記念日をご存知の方もいらっしゃいます。
ですが、数ある4月19日の記念日のなかで日本人として忘れてはならないのが「地図の日」です。
2015年5月17日に日本テレビ系列で現在放送中の「鉄腕DASH」の企画で「DAHSなんの日調査隊」の第一弾に日本地図を初めて作った偉人・伊能忠敬の命日である5月17日を特集し、彼と同じ方法でTOKIOのメンバーが神奈川県三浦半島の南端にある城ケ島の測量を行ったのは記憶に新しいかと思います。
ですが、なぜ伊能忠敬の命日である5月17日ではなく、4月19日が地図の日になっているのか気になりますよね。
そこで、今回は地図の日と伊能忠敬、そして最初の一歩の日の由来や関係についてご説明したいと思います。
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地図の日と最初の一歩の日は同じ?
毎年4月19日は地図の日として制定されておりますが、なぜ4月19日が地図の日になったのかご存知ですか。
寛政12年旧暦閏4月19日に日本地図を初めて作った偉人として知られる伊能忠敬が江戸を出発し、蝦夷の地の測量へ出発したことが由来となっています。蝦夷とは北海道の古称ですが、なぜ伊能忠敬は北海道の地図を作ろうと思ったのでしょうか。
伊能忠敬は1745年千葉県九十九里町にて神保家の末子として誕生し、幼名を神保三治郎と言います。しかし、彼は神保家から平山家の養子となり、17歳のときに大学頭の林鳳谷から忠敬という名を頂いたそうです。
そして、18歳の頃に千葉県香取市佐原村で日本酒や醤油の醸造や貸金業など様々な事業を営んでいた伊能家の婿養子となりました。彼が婿養子になった当時、伊能家の家業は縮小しており、危機的な状況に陥っていたのですが、忠敬の機知によって再興したといいます。
1783年の天明の大飢饉の際、忠敬は私財を惜しげもなく差し出し、貧民の救済に取り組むなど村政にもその優れた手腕を発揮し、その功績によって地頭から苗字や帯刀の所持を認められたそうです。
彼が隠居を始めたのは50歳のときでした。彼の隠居は周囲に惜しまれつつも隠居を始め、かねてから興味があった暦学を学ぶため、江戸に向かったのです。
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伊能忠敬の第一歩
忠敬は江戸に着くと、幕府天文方の高橋至時に師事を願い、自宅に天文台を作るなど、熱心に天体観測や測量についての勉強をしたそうです。
この当時の学者たちの関心は地球のサイズや経度・緯度を知ることに向いており、忠敬も彼らと同じものに惹かれていったのです。
しかし、それらを理解するには江戸から蝦夷地ほどの距離を測量する必要があり、さらに国土の測量及び蝦夷地へ渡航する際は幕府の許可が必要だったため、学者たちは困っていました。
そんなとき、ロシアをはじめとする海外勢力が日本へ迫ってきており、国防上精密な地図を必要と考えていた幕府の動きを察知した高橋至時は、蝦夷地の正確な地図をつくることを願い出たのです。そして、その重要な役割を55歳になった伊能忠敬に任せ、1800年4月14日に幕府から蝦夷地測量の命が正式に下ると、その5日後の4月19日に伊能忠敬一向は蝦夷地へ向けて日本地図を作るための最初の一歩を踏み出したのです。
そして、その日を記念して現在では毎年4月19日を地図の日または最初の一歩の日と呼ぶようになったのです。
ちなみに伊能忠敬の日本地図が完成したのは1815年2月19日であり、東京都八丁堀で全ての測量が完了したと言われています。このとき忠敬は既に70歳を迎えていたそうです。
しかし、その後測量した地図を繋ぎ合わせる作業を行う際、忠敬は病に倒れ、73歳で病死してしまったのです。
しかし、彼が命をかけて懸命に作った日本地図を世間に知らしめるために、その死を伏せ、1821年に江戸城大広間にて、ついに日本初の実測地図「大日本沿海輿地全地」が広げられたのです。
まとめ
今回は4月19日の地図の日とゆかりのある偉人・伊能忠敬についてご説明させて頂きましたが、いかがでしたでしょうか。
地図の日と最初の一歩の日は同じ記念日であり、日本地図を初めて作り始めようとした記念すべき日だったのです。日本は小さな島国だと言われていますが、伊能忠敬が歩いた道のりは4万歩であり、15年以上かかります。
これは地球1周するのと同じ距離であり、とても大変だったことが分かります。この機会に日本地図に触れ、彼の偉業を肌で感じてみてはいかがでしょうか。
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